2006年12月18日 (月)

情報システムの導入に関する覚書

 ふう。仕事の関係でいろいろとヒアリングをして回りました。まあ、この程度のヒアリングに時間をかけているようでは未熟者ではありますが、ネットに載せておくと、いろいろ便利なので私的なメモではありますが、記事にしておきます。複数の関係者の方々に音声・データ通信をとりまぜてインタビューをしたのでごちゃごちゃになっていますが、公表できる範囲(これで十分なのですが)で要点をネットに乗っけておきます。

 本当にどうでもいいのですが、まだ苦手な作業(「仕事」ではなく「作業」と呼べるレベルまで追い込みましたが)が残っているので、今週も不定期更新になりそうです。いずれもノーミスが基本で、最後の段階で気を抜くと、危険極まりないので怖いのですが。

(1)固定電話と移動体電話の融合(Fixed Mobile Convergence: FMC)

 事業所向けではFMCの導入によって、利用者側では、携帯電話の利用による通信利用料の支払いを抑制することができる。通信事業者からすれば、固定電話の契約解除の減少を抑制することが狙いである。

 先進国では有線と無線が混在する状態が続くだろうが、新興国では無線が主流となるだろう。先進国でも、宅内・施設内では無線が主流となる見通し。

 先進国のキャリアが推進する固定電話網のIP化とFMCは固定電話網からの退出を抑制することが主たるねらいとなっている。合衆国では約30%の従業員が事業所内で固定電話に容易にアクセスできる環境でも携帯電話を利用するという調査結果がでている。もちろん、FMCの導入で顧客の利便性は向上するが、主として費用削減の効果が大きい。個人向けでは、いわゆる「トリプルプレイ(電話、インターネット、動画配信)が見込み以上に成長している。ただし、どの程度のカヴァレッジを確保できるのかは不透明である。

(2)データ系システム会社がキャリアを選択する要因

 システム構築を行う事業者が重視するのは、キャリアの回線のデータ容量と価格である。都市部ではNTTやKDDI、ソフトバンクなどの競争が存在する。地方部でも、かならずしも、NTTの独壇場ではない。たとえば、小売業の場合、単に事業所が存在するという場合には、データ容量が小さいが、データ通信の拠点(本社機能ではない)を設置するとなると、ファイバーを何芯も必要とする。このような場合、NTTがかならずしも回線を保有していない場合がある。

 この1、2年で企業の情報システムへの投資意欲が強まっている。その意味でパワードコムは、投資のタイミングが残念ながら早すぎたのかもしれない。パワードコムは、高品質の回線を、都市部を中心に多く、保有していた。しかし、投資を大規模に行ったのが5年程度前であり、合併前は投資の回収が困難な状態であった。これを吸収したKDDIはNTTと対抗するキャリアとして生き残る可能性が高い。

(3)企業のデータシステムの品質と信頼性

 LANやWANなどのシステム構築にはネットワークを構築する専門の会社がキャリアから通信回線を主として賃貸し、顧客に提供する場合が多い。この際、回線賃貸料は、システム構築の費用として上積みされる。顧客がシステム構築を依頼する場合、顧客が最も重視するのは、価格であり、次にサービスの種類を重視する。サービスの種類とは主としてデータ容量である。

 キャリアが、システム構築会社を中抜きしてデータ通信サービスを提供する可能性があるかといえば、非常に難しい。ネットワーク構築に際して重要なことは、トラブルシューティングである。新規にネットワークを構築する際にも、追加的にネットワークを付加する場合にも、トラブルがつきものである。トラブルは、LANではほとんど生じないが、WANではほとんどの場合、生じる。異なる拠点間のプロトコルが主たる原因ではあるが、トラブルには多様な原因があり、実際にはマニュアル化することが困難である。トラブルを経験しないと、システム構築は進化しない。企業内のシステム構築のノウハウは、旧第二種電気事業者内部の人材に数十年にわたって蓄積されているため、キャリアや顧客が同等の人材を内部に育成するインセンティブに乏しい。NECや富士通、IBMなどのグループを除くと、自前でシステム構築をするよりも、事業者に依頼したほうがはるかに費用が小さい。

 他方で、信頼性は音声・データ通信ともに決定的である。信頼性が損なわれると、1週間以上、続くとなると、顧客の業務に支障がはなはだしい。顧客が納得する期間は2-3日程度である。ただし、金融(銀行や保険、証券など)は除く。これらの場合には、企業と顧客との関係で1日たりとも支障が生じては信用に関わるからである。まして、システムを構築してデータに欠損が生じたり、データベースの移行にともなってデータの内容が変更される(極端な場合、預金口座の金額が変化してしまう)などのことが生じると、経営上だけでなく、社会的問題に発展する。

 システム構築は、ほとんどの場合、逐次的である。このため、過去のデータベースを新しいデータベースに移行する際にトラブルが生じることが多い。また、逐次的であるため、納入する端末などが統一されていないことが多い。このため、規格や標準が統一されていない場合が多く、立ち上げの際に全くトラブルが生じないことの方が稀である。品質を差別化しているわけではないが、どうしてもバラツキが生じてしまう。

(4)システム構築事業者のタイプ

 システム構築に携わる事業者は、数百社程度である。そのうち、総合的なシステム構築を行う事業者は10社前後であると推測する。システム構築は、大雑把にいってネットワーク構築とアプリケーションの導入、保守サービスなどの分野に分類される。総合的という場合には、これらをすべて行うことができる事業者であり、ある特定の分野に特化する専門的な事業者の方がはるかに多い。

 とくにアプリケーションの分野には多くの事業者が存在する。製造業向けと小売業ではアプリケーションが全く異なる。金融や医療など特殊なケースを除いても、業種・業態によって要求されるアプリケーションは種類が多様である。このため、アプリケーションの分野には専門的な事業者が多い。

 大企業・中堅企業向けのシステム構築では、総合的な事業者が優位にある。ただし、これらの事業者も、専門的な事業者と連携してシステム構築を行うことが多い。情報システム自体が専門性の高い分野ではあるが、総合的な事業者は分野内での総合商社、あるいは「百貨店」としての性質を帯びてきている。システム構築にあたって顧客は、総合的な事業者に「丸投げ」して、必要に応じて専門的な事業者と連携する場合が多い。

 今後5年程度で、中小を含め、情報システムへの投資が一巡する見通しであるため、今が最もよい時期かもしれない。

(追記)下線部を修正いたしました(2006年12月19日)。

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情報システムの導入に関する覚書

 ふう。仕事の関係でいろいろとヒアリングをして回りました。まあ、この程度のヒアリングに時間をかけているようでは未熟者ではありますが、ネットに載せておくと、いろいろ便利なので私的なメモではありますが、記事にしておきます。複数の関係者の方々に音声・データ通信をとりまぜてインタビューをしたのでごちゃごちゃになっていますが、公表できる範囲(これで十分なのですが)で要点をネットに乗っけておきます。

 本当にどうでもいいのですが、まだ苦手な作業(「仕事」ではなく「作業」と呼べるレベルまで追い込みましたが)が残っているので、今週も不定期更新になりそうです。いずれもノーミスが基本で、最後の段階で気を抜くと、危険極まりないので怖いのですが。

(1)固定電話と移動体電話の融合(Fixed Mobile Convergence: FMC)

 事業所向けではFMCの導入によって、利用者側では、携帯電話の利用による通信利用料の支払いを抑制することができる。通信事業者からすれば、固定電話の契約解除の減少を抑制することが狙いである。

 先進国では有線と無線が混在する状態が続くだろうが、新興国では無線が主流となるだろう。先進国でも、宅内・施設内では無線が主流となる見通し。

 先進国のキャリアが推進する固定電話網のIP化とFMCは固定電話網からの退出を抑制することが主たるねらいとなっている。合衆国では約30%の従業員が事業所内で固定電話に容易にアクセスできる環境でも携帯電話を利用するという調査結果がでている。もちろん、FMCの導入で顧客の利便性は向上するが、主として費用削減の効果が大きい。個人向けでは、いわゆる「トリプルプレイ(電話、インターネット、動画配信)が見込み以上に成長している。ただし、どの程度のカヴァレッジを確保できるのかは不透明である。

(2)データ系システム会社がキャリアを選択する要因

 システム構築を行う事業者が重視するのは、キャリアの回線のデータ容量と価格である。都市部ではNTTやKDDI、ソフトバンクなどの競争が存在する。地方部でも、かならずしも、NTTの独壇場ではない。たとえば、小売業の場合、単に事業所が存在するという場合には、データ容量が小さいが、データ通信の拠点(本社機能ではない)を設置するとなると、ファイバーを何芯も必要とする。このような場合、NTTがかならずしも回線を保有していない場合がある。

 この1、2年で企業の情報システムへの投資意欲が強まっている。その意味でパワードコムは、投資のタイミングが残念ながら早すぎたのかもしれない。パワードコムは、高品質の回線を、都市部を中心に多く、保有していた。しかし、投資を大規模に行ったのが5年程度前であり、合併前は投資の回収が困難な状態であった。これを吸収したKDDIはNTTと対抗するキャリアとして生き残る可能性が高い。

(3)企業のデータシステムの品質と信頼性

 LANやWANなどのシステム構築にはネットワークを構築する専門の会社がキャリアから通信回線を主として賃貸し、顧客に提供する場合が多い。この際、回線賃貸料は、システム構築の費用として上積みされる。顧客がシステム構築を依頼する場合、顧客が最も重視するのは、価格であり、次にサービスの種類を重視する。サービスの種類とは主としてデータ容量である。

 キャリアが、システム構築会社を中抜きしてデータ通信サービスを提供する可能性があるかといえば、非常に難しい。ネットワーク構築に際して重要なことは、トラブルシューティングである。新規にネットワークを構築する際にも、追加的にネットワークを付加する場合にも、トラブルがつきものである。トラブルは、LANではほとんど生じないが、WANではほとんどの場合、生じる。異なる拠点間のプロトコルが主たる原因ではあるが、トラブルには多様な原因があり、実際にはマニュアル化することが困難である。トラブルを経験しないと、システム構築は進化しない。企業内のシステム構築のノウハウは、旧第二種電気事業者内部の人材に数十年にわたって蓄積されているため、キャリアや顧客が同等の人材を内部に育成するインセンティブに乏しい。NECや富士通、IBMなどのグループを除くと、自前でシステム構築をするよりも、事業者に依頼したほうがはるかに費用が小さい。

 他方で、信頼性は音声・データ通信ともに決定的である。信頼性が損なわれると、1週間以上、続くとなると、顧客の業務に支障がはなはだしい。顧客が納得する期間は2-3日程度である。ただし、金融(銀行や保険、証券など)は除く。これらの場合には、企業と顧客との関係で1日たりとも支障が生じては信用に関わるからである。まして、システムを構築してデータに欠損が生じたり、データベースの移行にともなってデータの内容が変更される(極端な場合、預金口座の金額が変化してしまう)などのことが生じると、経営上だけでなく、社会的問題に発展する。

 システム構築は、ほとんどの場合、逐次的である。このため、過去のデータベースを新しいデータベースに移行する際にトラブルが生じることが多い。また、逐次的であるため、納入する端末などが統一されていないことが多い。このため、規格や標準が統一されていない場合が多く、立ち上げの際に全くトラブルが生じないことの方が稀である。品質を差別化しているわけではないが、どうしてもバラツキが生じてしまう。

(4)システム構築事業者のタイプ

 システム構築に携わる事業者は、数百社程度である。そのうち、総合的なシステム構築を行う事業者は10社前後であると推測する。システム構築は、大雑把にいってネットワーク構築とアプリケーションの導入、保守サービスなどの分野に分類される。総合的という場合には、これらをすべて行うことができる事業者であり、ある特定の分野に特化する専門的な事業者の方がはるかに多い。

 とくにアプリケーションの分野には多くの事業者が存在する。製造業向けと小売業ではアプリケーションが全く異なる。金融や医療など特殊なケースを除いても、業種・業態によって要求されるアプリケーションは種類が多様である。このため、アプリケーションの分野には専門的な事業者が多い。

 大企業・中堅企業向けのシステム構築では、総合的な事業者が優位にある。ただし、これらの事業者も、専門的な事業者と連携してシステム構築を行うことが多い。情報システム自体が専門性の高い分野ではあるが、総合的な事業者は分野内での総合商社、あるいは「百貨店」としての性質を帯びてきている。システム構築にあたって顧客は、総合的な事業者に「丸投げ」して、必要に応じて専門的な事業者と連携する場合が多い。

 今後5年程度で、中小を含め、情報システムへの投資が一巡する見通しであるため、今が最もよい時期かもしれない。

(追記)下線部を修正いたしました(2006年12月19日)。

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2006年11月19日 (日)

とりあえず生きてます

 もう、時の最果てから何が送られてきても、記事にする余裕がありません。誰も心配しているとは思えないのですが、とりあえず、生きています。10月ぐらいから土日が事実上、休みではないのですが。更新がこの一週間ぐらいないかもしれませんが、死んでいるわけでもなく、ブログをやめるわけでもなく、手が回らないと御理解ください。

 要は「債権者」にリスケを重ねて要求してきて向こうも限界になって「債務者」代表がさっさと「債務」を返さないと、「業界で食えないようにしてやるぞ」(もちろん、露骨な表現はされない上品な方ですが)という状態なのであります。メキシコみたいな路線もあるのですが、あそこまで開き直れるほど、気が大きくないので、もう「デフォルトするぞ!」という脅しは効かなくなりました。ったく、『溜池通信』なんかを3回(今週号)も読む時間があったら(意志が弱いんですよ。アンチウィルスソフトで「有害サイト」指定でもして見ることができない状態にでもしないとついつい読んでしまう。悔しい限りですが)、さっさと「返済」しろってな訳でありまして、ネットもしばらくは見ないようにしないと…。

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2006年8月24日 (木)

ブログ移転のお知らせ

 ブログを移転することにいたしました。新しいブログのアドレスは下記の通りです。

http://the-end-of-time.sblo.jp/

 ココログではこの記事をもって更新を止めます。なお、当面、ココログにも過去ログを保存して、時機を見て解約する予定でおります。今後は、上記のアドレスにて記事を更新いたします。今後も、鄙びたブログにお付き合いいただける方は、上記のアドレスで記事を御覧いただければ、幸いです。

 ブログ移転にいたる経緯を簡潔に説明いたします。2006年8月6日の記事で8月2日に新アクセス解析がアクセスが反映されない状態に、一時的ですが、なりました。ココログからのお知らせでは、当初、「約6分の1」のユーザーに影響があったと記載されておりましたが、現時点では65名となっております。この数字の変化にココログ側からの説明は一切ありません。

 既に8月6日の段階でココログのサポートに事情を連絡しておりましたが、誠意ある対応はありませんでした。言葉遣いはごく丁寧ですが、文面からウェブの知識のないユーザーがマニュアルも読まずにクレームをつけているといわんばかりの対応でした。その後、8月22日にアクセス解析に支障がでているお知らせがでましたが、当初、発表した内容と数字その他が変更されているにもかかわらず、説明がなく、不誠実さを感じました。幸い、記事やコメントなどに影響はありませんでしたが、不誠実な対応に終始したプロバイダーは信用できません。以前から、カワセミ様からアドバイスを頂いて試験的に別途、運用しておりましたが、とくに支障もなく、必要以上のアクセス解析機能もついていないので、移転することにしたしだいです。

 当方の都合により、お越しいただいてきた方々に御迷惑をおかけしますが、ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。引き続き、お越しいただければ、これに勝る幸せはありません。

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2006年8月23日 (水)

総裁選をめぐる不寛容

(@不気味な大学の地下室)

勧誘員A:世の中には「相対的な幸福」と「絶対的な幸福」がある。
新入生(私):はあ。
勧誘員A:世の中はバブルで浮かれている。金儲けにあくせくして贅沢な車に乗ってけばけばしい女を抱いて阿呆のようだ。これが「相対的な幸福」だ。だが、幸福はそんなところにはない。幸福は精神に宿る。わがサークルは、絶対的な幸福を探求する場だ。
新入生(私):はあ。
勧誘員A:なんだか腑抜けた返事ばかりだなあ。君は、どちらを望むのか?
新入生(私):(きっぱり)相対的な幸福です!お金ほしいし、いい車に乗りたいし、できれば運転手つきがいいでしょう?きれいな女のヒトは大好きだし。○は、まだまだ経験不足だし。
勧誘員A:…………。お前みたいな堕落した人間の末路は悲惨だぞ!!
新入生(私):だってえ、自分の欲求に素直でなにが悪いんですか?
勧誘員A:貴様みたいな奴は!!
勧誘員B:待て。われわれは、君みたいな人とはご縁がないのかもしれぬ。いつか君の浅はかさに気がついたら、遠慮なくおいで。

 あるカルトとのやりとりをふと思い出しました。名前は忘れてしまいましたあ。誤魔化しているのではなくて、本当に忘れてしまいました。なんとか真理教ではなかったと思います。なんとか学会でもなかったと思います。実際はこんな生易しいやりとりではなく、お説教をしていた勧誘員の方が実際には本気で切れてしまって、身の危険を感じました。そういえば、過激派がヘルメットをかぶって授業妨害にきたときに、うざったくて「こんなところでヘルメットをかぶらずに、土方さんと方を並べて汗を流したらどうだ」と言って、二度と私のクラスには来なくなったなんてこともありました。

 大学に入って周囲の学生や教官を見て、「珍獣博物館」だなあと思いました。当時は授業料が年間で30万程度でしたが、見物料みたいなものかなと母上(大学にいっていないので、どんな凄いところだろうと期待していたようです)に報告したら、「もっとマシな大学に行きなさい!」と怒られてしまいました。歴史だけは古いそうで、入学式のときに本学は「来年で建学から百年を迎えますが」みたいな調子で誇らしげに語られていて思わず、笑ってしまいました。だって高校のほうがずっと古いんだもの。

 大学時代に珍しいものばかりを見ましたが、おかげで「日の下に新しいものなどなにもない」ということを次元の低いレベルで実感したしだいです。

 「思うに逆境や試練に耐えて成長する人というのは、今の世の中では希少価値であるのかもしれません」などとかんべえ師匠が書かれると、失礼ながら、お老けになったなあと思います。2001年4月の小泉政権の誕生の際には今よりも文章はこなれていなくても、輝いていた。時代ごとに逆境や試練はあるものです。いつの時代でも逆境や試練に耐えて成長する人は決して多くはないでしょう。たいていは、挫折したまま志を捨てるか、時代によっては命を落としたりします。たとえ志を曲げなくても、人間が偏狭になったり、かえって視野が狭くなって使いものにならない方が大半です。誰だって逆境や試練は、程度の差こそあれ、経験するものです。そこで鍛えられたと言う方よりも、そんなことを口に出さずに飄々と世を楽しんで市井で暮らしながら、小奇麗に生きている方のほうが頼もしく感じます。

 雪斎先生は、安倍氏のひ弱さを指摘されています。小泉政権は、前政権への極端な期待値の低さに助けられて、広範な世論の支持の下に誕生しましたが、期待値の高さにむしろ苦しんだ印象があります。現政権の発足当初を見ると、閣僚の配置からして「おニャン子クラブ」状態で派閥にとらわれないという点は満たしていたものの、混乱が続きました。権力の掌握はおろか、民意も政権に期待しない状態が2年近く続いていました。5年で「長期政権」というのも寂しいですが、ほどよく次期政権への期待値が下がることは次期総裁、ひいては次期総理が力みさえしなければ、淡々と権力固めをするには意外と悪くない環境だと考えます。ただし、安倍氏が次期総裁となったときに、憲法改正や安全保障政策の見直し、教育基本法の改正に本格的に取り組むとすると、連立のパートナーである公明党をどう扱うのかは、派閥がどうのこうのよりもはるかに難しいでしょう。政局リスクがあるとすれば、連立与党の枠組みの崩壊が問題だと思います。

 小泉政権が発足してから景気が急速に悪化した時期に、これだけ悪いのだから思い切ったことをやったらいいんじゃないのと思いました。今回は逆に次期総裁への期待値が低下しているのなら、控え目に思い切ったことをやったらいいんじゃないのと思います。ただし、今回の場合、どの候補でも現政権ほどの共感の広がりは期待できませんから、「説得」と「教育」が肝要だということは変わらないです。寛容に関していえば、反対する人たちを排除するのではなく、聞く耳をもった上で彼らの思い通りにならなければ十分でしょう。それにしても、安倍さんにしても、麻生さんにしても、応援する方たちの「不寛容さ」は、ちょっと度し難い印象があります。現時点で最有力とされている安倍さんが総裁になったところで思い通りに行かないことが多いでしょう。麻生さんも同じ。そのことにいちいち腹を立てていては、身がもちません。

 以和爲貴 無忤爲宗 人皆有黨 亦少達者 是以或不順君父
  乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成

 聖徳太子は、「和」を統治の手段として利用しようとしました。残念ながら、「和を以って貴しと為す」は、なあなあの象徴に、特に戦後は用いられるようになりました。「和」を統治の手段にするためには、「説得」と「教育」が不可欠です。現実には実現可能性という点で非常に厳しいとは思いますが、小泉後の諸懸案を解決するには、まず総理のリーダーシップの下で「内閣主導」という名の和の政治が不可欠です。寛容であることは、他人の意見によって左右されることを意味するものではありません。自分の政策を実現するために「説得」と「教育」を絶えず行っていることを印象付けることが肝要です。失礼ながら、外野の議論を伺っていると、空しさを覚えますが、外野よりもプレーヤーは怜悧な方たちであろうと思います。

 それにしても、コップの中の嵐ですね。私自身は、命あっての物種ですから、次期政権におかれましては、国内外の安全の確保にもっと力を注いでいただきたいです。

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2006年8月22日 (火)

自民党総裁選と安全保障

 書きたいことがいろいろあって整理するのが大変です。まず、早実が夏の選手権初優勝とは恥ずかしながら、知りませんでした。高校3年生のときに2回戦から決勝戦まで母校を応援して甲子園出場を決めたときは本当に嬉しかったのですが、悪友が河合塾の京大対策とかいうしょうもない講座(もともと塾とか予備校とかバカにしていたので)を受けるのが一人では嫌で私を誘ってきたのでやむをえず名古屋へ。くだらない講義を聴いていたら、一回戦負け。それ以来、高校野球には興味がなくなってしまいました。戦前に夏の選手権で優勝が一回、戦後に準優勝が一回あるだけで大して強い学校ではないのですが、高3の夏以来、選抜に一回だけ出場するだけで後は音沙汰がなく、情けない限りです。

 かんべえ師匠の「ソージツ」で久しぶりにほろ苦ひ、かんべえ節を味わいました。これまでの私の心ない所業を反省いたします。さくらさんは麻生さんにラブラブ。安倍さんと麻生さんを並べてどちらかを支持しなさいと言われると、ちょっと苦しいです。「安倍さんとの違いについては、外交政策については『違う方が問題』として、大きな違いがないほうがいい」とさくらさんのところに書かれていたので、僭越ではありますが、やはり大人の方なんだなあと思いました。

 素人目には今回の総裁選は、いつも以上に、総裁選の中で行われる政策論議が総裁選後にも生きてくるように思います。地方行政というのは、大切な話だと思います。浜松に帰って驚いたのですが、私と同じく普通の暮らしをしている人の「反小泉」意識は思った以上に強いです。『溜池通信』208号(2003年10月24日)のタイトルは「日本経済3つの断層」です。3番目の「断層」として挙げられている中央と地方は昔ながらの問題(他の二つも)ではありますが、目先の問題に限定しても、来年の参院選に直結するだけに、真剣な議論が必要だと思います。

 雑談が長くなってしまいましたが、今回の総裁選でおそらくは主たる争点にはならないでしょうが、私が次期総裁に期待しているのは、安全保障政策で日米同盟の強化(集団的自衛権の行使)と基盤的防衛力の整備に関して国民的なコンセンサスをえることです。ここで大切な点は、両者は代替するものではなく、補完的であるという認識です。いつも同じことばかり書いていて恥ずかしいのですが、自国を守れない国は同盟国たりえません。そして安全にはカネがかかる。財政健全化や歳出削減は、財政の論理としては正当なものでしょう。ただし、その大前提は国が安全であるということです。そのためには、ヒト・モノ・カネが欠かせません。財政の論理だけで防衛費を削減してしまうと、前提を崩すとまでは申しませんが、自衛隊の選択肢は必要な範囲ではなく、予算の枠で決まるということになりかねません。財政の論理では、同盟強化と防衛力の強化(実際にはそんな景気のよい話ではないと思いますが)は代替関係になってしまう。これを補完的な関係であることを明確にすることが、次期総理に私が期待することです。これは、総理のリーダーシップなしではまず実現しないでしょう。

 次に、リーダーシップのあり方ですが、小泉総理タイプのあり方は望ましくないと思います。誤解のないように申し上げますが、郵政選挙の「批判」を2006年8月12日の記事で行いましたが、「説得」と「教育」という点で不足していたということを問題にしているのであって、共感をえるという点では小泉総理のリーダーシップは、おそらく現時点で総裁候補に名前が挙がっている方には真似ができないと思います。共感をえるということは、リーダーシップのなかで最も難しいことかもしれません。その点で、小泉総理は特異なリーダーであったと思います。しかし、国防の問題は、冷戦期とは異なった意味で世論が感情にぶれやすく、自衛隊やアメリカに過大な期待をしたり、極端に他国に攻撃的になる可能性もあります。世論のブレを瀬踏みしながら、国民の代表者を説得し、世論の理解をえるというリーダーシップが必要だと考えます。

 これは、いわゆる「調整型」のリーダーとは異なります。もちろん、政治的な取引の必要性を否定するつもりはありませんが、国防に関するコンセンサスは、ボトムアップではなく、トップダウンでなければ形成することは難しいでしょう。ただし、リーダーと意見が異なる人たちを「抵抗勢力」として攻撃する手法は、国防に関するコンセンサスをえるのには逆効果だと思います。国防に関するコンセンサスは、失礼ながら、道路公団民営化や郵政民営化よりもはるかに公共性の高い話です。事実、この問題に関しては小泉総理は、「構造改革」とは異なった「忍耐」をされてきたと思います。既に、小泉改革の評価が行われていますし、これからも行われてゆくでしょうが、小泉総理のリーダーシップのあり方は、決して郵政選挙のような劇的な手法ばかりではありません。次期総理は、小泉総理以上に「説得」と「教育」の能力が必要だと考えます。

 2008年以降はデリケートな時期に入ります。いろんな予測がありますが、中国共産党の一党独裁が続き、台湾の民主主義が動揺して台湾海峡が危険な状態になるというシナリオがリスクが高いだけでなく、蓋然性も高いと思います。総裁選ではこのような問題があからさまに争点になるとは思いませんが、どなたが総裁になっても、国防に関するコンセンサスを形成することが要になると思います。リーダーの能力として「説得」と「教育」が必要だと書きましたが、リーダーの資質として大切なのは誠実さと寛容だと思います。どんな政治的主張も党派性を免れることはできません。私の主張も党派的です。

 政治から党派性をなくすことはできません。しかし、主義主張の違いはあっても、共通の利害を顕在化させ、全員ではなくても、多数派のコンセンサスを形成させることが民主主義のリーダーの役目だと考えます。次の総裁選の課題は、「戦時モード」から「平時モード」への転換ではなく、いつ「戦時モード」に至っても、ブレが少ないできうる限り強固なコンセンサスを形成するという地味な作業だと思います。誠実さは党派が異なる方の信用をえる上で不可欠ですし、寛容さは議論を自由にします。さらに贅沢をいえば、真剣かつ地味でありながら「物騒な」話を明るく見せる遊び心があれば、いうことがありません。不謹慎なことを申し上げますると、真剣にやる物騒な話を私はつい楽しんでしまいます。

 あらためて思うのですが、経済の論理と安全保障の論理は、相性が非常に悪いように見えます。この問題は、この記事の趣旨(あるいは私の能力)を超えるので簡単なことだけ申します。ゲーム理論を用いた経済分析では経済主体間の対立が問題になりますが、背後には協力解を基準に判断する発想があります。もっと素朴にいえば、経済活動の基本は、市場全体での互恵的な関係です。対照的に安全保障の世界ではこのような発想はあまりに牧歌的でしょう。同盟は基本的に互恵的な関係ですが、そうではない世界があるから同盟が必要になるわけで、経済とはどこか根本的に異なる部分があるように思います。これは私がどちらの分野でも知見がないからかもしれませんが、経済畑の方が安全保障を議論すると、あらぬ方向へいってしまいますし、逆も多いように思います。知識の多寡が問題なのではなくて、同じ人間がやることでも経済と軍事では違う世界なのだということかもしれません。これは、私自身が整理できておりませんので、とりあえずの「寝言」です。

 ここまで書いてきてようやく自分が何を書きたいのかがわかりました。まともなことを当たり前にやってほしいという「寝言」でした。

…。頭が悪いってつらいですね。はあ。こんな中身の薄っぺらで、そのくせ長い記事に最後までお付き合いしていただいた方に心から感謝いたします。  

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2006年8月21日 (月)

憲法改正と自衛権

 週末は、トレーニング三昧でした。もちろん、ピラティスでへとへとに。インストラクターの方が、爽やかな笑顔(奥底に悪魔が潜んでいる気がいたしますが)「今日はみなさんにお中元がありますので、お楽しみに!」終わった後でのしをつけて返したい気分ではありますが、効果てきめんなので感謝するしかないです。

 日曜の深夜にチャンネル桜の「日本よ、今...闘論!倒論!討論!2006 安倍内閣と日本の防衛」という番組を見ました。メンバーが凄くてそれだけでお腹いっぱい。タイトルで「安倍内閣」という身も蓋もない表現が使われていてちょっとどうかなとは思いましたが、内容は勉強になりました。ただ、違和感というか、私が思っていたより問題が深刻だなあと思いました。

 このブログでは集団的自衛権の行使に関する素人談義をしていたのですが、個別的自衛権については行使できるのが解釈としても定着しているのであまり議論をしていませんでした。しかるに全体のお話の中で自衛権はあるけれども武力行使は事実上できない(憲法9条で交戦権を否定しているからということでよいのでしょうか?勉強不足で申し訳ありません)。策源地攻撃能力の問題で物議を醸すというのは私の理解の範囲を超えるのですが、領域警備ですらここまでお寒い状況であるというのは理解できていませんでした。根っこは同じであるということがよくわかりました。自衛権はあれども、交戦権はない。素人考えにすぎませんが、前から集団的自衛権が行使できないということは、個別的自衛権も事実上、行使できないということではないかと考えておりました。なんのことはない。憲法9条が諸悪の根源であるというシンプルな問題であることが整理できました。

 ただ、憲法を改正すれば、これらの問題が解決するのだろうかという懸念があります。憲法で定めているのは、かなり大枠の話でこれが制約になっているのは事実だと思います。9条2項を削除して自衛隊を国軍として認めるのは当然だと思います。他方で、憲法で定めているのはかなり大雑把な話で憲法の条文をどのように解釈するのか、防衛の問題に絞っても、さらに具体的な法整備やROEの策定などがむしろ重要だと考えます。極論ですが、憲法を改正しても、それにふさわしい法をはじめとする制度が整わなければ、事態は変わらないのかもしれません。素人の浅知恵ですが、憲法の条文は大切ですが、運用面をちゃんとしないと、問題は変わらないということになりかねない懸念を持ちました。

 さらに素人の目から見ると、憲法を改正し、解釈がまともになっても、そのときどきの為政者の判断しだいでは、国防の観点から望ましくない結果が生じるかもしれません。安倍長官には期待しておりますが、戦後60年以上の悪弊はまだまだ残っているように思います。また、憲法改正に時間がかかれば、番組で指摘されていた2008年に間に合うかどうか。現行憲法の下でも総理の判断でできることは少なくないと思います。素人の「寝言」ですので、理解が至らない点を御指摘いただければ幸いですが、番組の趣旨と反して憲法改正以上に国防の問題は、総理の資質による部分が大きいと感じたしだいです。

 もう一つ感じた点は、手前味噌になるので恐縮ですが、敗戦国の再軍備の難しさです。冒頭の古森義久さんの解説は、アメリカも日本の「軍備増強」(古森さんはこのような表現をしていなかったと思います。政治的には不適切な表現でしょうが、「時の最果て」ですので言いたい放題にさせていただきます)に不信感をもっていたのが、ブッシュ政権の下ではむしろ、それを望んでいて首脳間の特異な関係もあって日米関係は外交・安全保障ともに非常に良好だという評価でした。もちろん、2008年の大統領選挙の結果しだいでは、変化しうることも指摘されていました。

 番組では中国の「文攻武嚇」とそれに対する反撃が詳細に検討されていましたが、私は、アーミテージ・レポートの線で共和党保守派から共和党・民主党の中道に日米同盟が米英同盟に匹敵する価値をもつことが、日本の国益だけでなく、アメリカの国益にもかなうというコンセンサスをつくるための努力がはるかに大切だと思いました。J.ナイもリベラルな立場ですが、いざ実務となると、ナイ・イニシアチブをまとめました。靖国参拝でアメリカでも否定的な意見があるのは事実でこれに対応することも大切ですが、それ以上に日本がアメリカの同盟国として軍事的にも、共通の価値という点でもぶれることがなければ、靖国参拝や中国の「文攻」などは枝葉末節になると思います。集団的自衛権に関して余計な留保は不要だと思います。集団的自衛権を行使するとなれば、私は心から自衛官の方々にご無事で帰還されることを望まざるをえません。血を流すことが同盟の最も強い絆となるとはいえ、やはり同じ日本人として断腸の思いがいたします。集団的自衛権を「必要最小限度」で認めるというのは、違和感があります。このような重い決断を軽々しく行われること可能性は低いと思います。

 繰り返しになりますが、自衛権の行使というのは軽々しく行うものではありません。イラクへの陸上自衛隊の派遣は問題も少なくないと思いますが、当時としてはギリギリの決断だったと思います。問題は、憲法以上にそれを運用する最高指揮官の資質が大切であると実感したしだいです。

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2006年8月20日 (日)

靖国参拝の後

(@時の最果て)

ハッシュ:zzz
ボッシュ:先週、お休みしただけというのに、間が空いた感じがするのお。
ハッシュ:ふわあ。なんじゃ、おぬしか。
ボッシュ:…。お約束とはいえ、でだしぐらいなんとかならんのか。
ハッシュ:「おやくそく」?
ボッシュ:いつきても、同じ光景、同じ挨拶じゃ。まあ、だから安心するんじゃが。
ハッシュ:おぬし、ココにくると、安心するのか?
ボッシュ:ジパングもええが、人が多くて疲れる。つまらないことで騒ぐ御仁もおるしのお。ココは時の最果てだけにおぬししかおらぬ。最果てとはよくいったものじゃ。
ハッシュ:そんなにジパングは騒がしいのかえ?
ボッシュ:うーむ、真面目に尋ねられると困るんじゃが。先週は、お盆の時期だけに店もお休みしておったし、平和そのものじゃ。そういえば、あのデブもぶろぐを休んでおったのお。
ハッシュ:そうだったかあ…。他の客人で手一杯であのデブのことは見ておらぬ。
ボッシュ:…。おぬしも薄情じゃな。まあ、8月15日を避けたのは、あのデブにしてはなかなか利巧じゃ。テレビをつけたら、朝から晩まで靖国、靖国じゃ。うんざりしたわい。
ハッシュ:「やすくに」?
ボッシュ:しまった。こんなところでボーっとしている御仁に説明するのは面倒じゃ。ジパングの総理大臣小泉純一郎が靖国神社というところにお参りをしてのお。テレビじゃ大騒ぎじゃ。
ハッシュ:お参りが騒ぎになるのかね?
ボッシュ:…。説明すると面倒なんじゃが、靖国神社というのは基本的にジパングが百年以上前に新しい国づくりを始めた頃に戦争で犠牲になった人たちを祀っておるんじゃ。もっとも、戦争で亡くなった人だけではない。吉田松陰とか高杉晋作といった厳密には戦死者とはいえない人も祀られておる。さらに、60年近く前の戦争を指導して裁判で戦争犯罪人とされた人も祀られておる。騒ぎの源は、最後の人たちを祀ることに反対している人たちじゃ。
ハッシュ:いくさを指導したら、犯罪になるのか?
ボッシュ:…。この話題をするんじゃなかったな。時の最果てゆえ、言えることじゃが、大戦争で負けたら、昔なら将軍が戦死したり、敵国に捕まって殺されたりしたらしいんじゃ。王国なら、最悪の場合、国が滅ぶ際に国王が殺されたり、戦死することもザラじゃ。さらにじゃ。勝ち負けは別として、武装していない普通の人も戦争で殺されたりする。そんなこんなで戦争は悲惨なものゆえ、ルールを数百年かけて悲惨なりにそれをできるだけマシにしようとしてきたんじゃ。
ハッシュ:おぬし、なかなか詳しいのお。今の話を聞いておってわからんのじゃが、60年前の戦争なら、今の話では比較的、最近じゃな。なのに、ジパングの指導者は犯罪者なのか?
ボッシュ:難しいところじゃ。指導者や捕虜の扱いなどで問題があったとされた人たちなどは、裁判で犯罪者とされた。そんな裁判は、勝った側が一方的に裁いたから、無効だという主張もある。一方で、負けたジパングが禊を済ませるにはやむをえなかったという見方もあるんじゃ。勝った側とて犠牲者がおる。また、勝った側の中でも、連合国というぐらいじゃから、国によって立場が違うんじゃ。もっとも、いちゃもんをつけている国は、連合国の一員ではなかったから、さらにややこしい。
ハッシュ:なんだか、ワシには手におえない問題のようだが、喧嘩をした後で負けた側が負けたことを認めたことを確認することと、負けた側が死者を弔うということは別ではないのかね?
ボッシュ:それが、そんなにわかりやすい話じゃないんじゃ。全部を説明すると、ワシの手には負えないが、おぬしのように無知ゆえにバッサリ話を切れる人ばかりじゃったら、騒ぐ者もおらぬ。死者をどう弔うのかということを日々の生活では意識する人は少ない。「お盆」というジパングの慣習は、日々の生活から死者を弔う期間と場をもつという意味でよくできておる。最近は、夏休みをとる口実になっているようじゃがな。ご先祖様の供養というのは、それぞれの家の問題じゃ。しかし、国のために亡くなった方をどう弔うのかということは、ある家の事情で決めるわけにはゆかぬ。単に弔うということでゆけば、先の大戦の戦没者は慰霊されておる。ただ、今のジパングは、国としての体をなしたのは130年足らず前じゃ。大戦という断絶があったために、よそ者からすると、国のために亡くなった方を弔うといういう基本がガタガタになっておるんじゃ。だから、靖国神社一つとっても、8月15日に大騒ぎをしてそれっきりなんじゃ。どこのチャンネルを回しても、靖国、靖国で、しかも海外の反応とかどうでもいいことばかりが多すぎる。メディアからはジパングの人たちが、自分の国をどうするのかということについて考えがまるで伝わってこんのじゃ。
ハッシュ:いよいよ、ワシの手には負えぬ。今日は聞き役に徹するか。
ボッシュ:ジールの頃は、戦争などなかった。なぜなら、ジールだけが国だといってよい状態だったからな。地の民のように微妙な問題はある。ただ、現代のガルディア、ジパングと見て回ってみて思ったんじゃが、昔から戦争は絶えた試しがないんじゃ。だから、軍人やそうじゃない人も含めて犠牲者が山のようにおるんじゃ。そういった人たちをどう弔うかは、同じ国でもかならずしも統一されているわけではない。その時代ごとに為政者や地方の有力者、あのデブのような一般庶民がいろんな知恵をだして最善かどうかは別として工夫をしてきたものじゃ。ワシみたいな素人からすると、歴史などというのは、そういった無数の工夫の積み重ねじゃ。もちろん、人が死ぬのは戦争ばかりではない。病死もあれば、事故死もある。むしろ、こちらがほとんどだな。これは、その親族が弔うのが基本じゃ。そうじゃない場合、どう弔うのかという基本的な問題は、くどいようじゃが、日々の生活には直結していない。ただな、生は死あってのせいじゃ。国レベルで議論すれば、いろんな価値観がぶつかるじゃろ。それでいいんじゃ。ただ、国レベルで死というものにどう接するのかということをジパングの人たちは避けてきた印象はある。
ハッシュ:あのデブは、なぜこの問題に触れぬのじゃろ?
ボッシュ:それは、あのデブが語るべきことじゃ。ワシの知ったことではない。ただ、騒ぎになりそうな時期に旅にでているというのは、確信犯かも知れぬ。まあ、芸はないが、ないなりに頭を使っておるようじゃな。
ハッシュ:あのデブ、頭は悪いが、それ相応には人が悪いということか。
ボッシュ:大御所の返歌にワシたちをだしに使うしのお。ゼリーがうまかったから、まあ、今回は許す。
ハッシュ:ワシは、一つも食べておらぬのじゃが。
ボッシュ:…。なんのことだっけ。さてっと。そろそろ店も開けておるし、忙しいのお。そろそろじゃな。
ハッシュ:…。なんだか、あのデブと変わらぬ気がするが…。とりあえず、また、おいで。

 なんだか、すごい議論ですね。私が「確信犯」というのは心外ですが。もちろん、家にいたってテレビなんて見ませんよ。精神衛生に悪いだけですから。テレビを見て怒っている方をバカにしているわけじゃありませんが、こんなのは想定内でしょうから。

 それにしても、「家康の散歩道」を歩いて三方原の合戦で亡くなった武将の碑、東照宮、月窟廟などを見て回ると、死者を弔うということは時代とともに変わると同時に、変わらない側面もあることに気がつかされます。ウォーキング日記では省きましたが、月窟廟は、他のお墓の中にありますし、宗源院も三方原での合戦における死者のお墓が、徳川方だけでしょうが、あります。禅寺ということもあるのでしょうが、私のご先祖様と変わらぬ光景です。

 御厨先生の「保守の終わり」という評論は、ずいぶん前ですが、興味深く拝読しました。冷戦で西側陣営が勝利した結果、革新陣営が崩壊し、次にそれに対抗する保守陣営が様変わりするというのは図式的ではありますが、基本的には正しいのでしょう。他方で、党派性が不明確になった現在、安保環境に日本人は敏感になっています。現状ではそれにどう具体的に対応するのかという点では、まだまだ十分なコンセンサスがえられていないでしょう。ただし、「外敵」にはそれ相応の対応をすべきというコンセンサスはできつつあるように思います。メディアなどが靖国参拝をどう報じたのかは知りませんが、これだけ周辺諸国が日本を小突き回せば、結果は自明だと思います。「右傾化」というのは現実を無視した話だと私は思います。安保環境の悪化(あるいは戦後最大の「先送り」の結果)を意識する国民が増えただけの話でしょう。過疎ブログの運営者の「寝言」ですが、ネットの影響は無視できませんが、メディアが仮に偏った報道をしても、真実を完全に隠すことはできません。江沢民が宮中で歴史問題をもちだしたときに、特別、保守的でもない知人が「まだ言うのか」とバカバカしそうにしていたのを思い出します。

 靖国神社については、現状から変える必要を感じません。幕末維新以降の近代日本が、それ以前と異質だという主張は間違ってはいないと思いますが、笑い話ではあります。そんなことを言い出したら、江戸時代もそれ以前とは異質ですし、鎌倉時代も異質です。明治以降に政権を正当化するために様々な「神話」をつくったという主張もごもっともですが、これなど江戸時代も相当なものです。家康は神君となり、儒教で国を治めるというのは「神話」以外の何者でもないでしょう。意地の悪いことを申し上げれば、戦後最大の神話は平和主義という名の「先送り」ではありますまいか。

 このような言論に接して感じるのは、「戦後」を一つの時代として見るならば、初めて他国に占領されて自分で自分の国のことを決める意思を失っただらしない国になった時代だということです。「民族自決の原則」なるものが国際社会のルールとなる前から、私たちの祖先は自分たちのことを自分たちで決めてきました。それは、ほとんどの場合、当時の為政者による押しつけであったのかもしれません。それに比べれば、はるかに現在は自由な時代です。それにもかかわらず、自分の国のことを決める意思を失ってきた60年余りの期間は、私には「衰退の歴史」に見えます。

 再び、この国が自分の運命を自ら選択する意思をもつようになること。それが、この「寝言」のささやかな願いです。

 ここで話の水準が落ちるのですが、食い物の恨みは怖いようで。個人レベルでは、恨みを覚えていることよりも、忘れる方がよいことが多い気がいたしますが。

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2006年8月19日 (土)

遠州浜松の旅 ウォーキング編(2)

 自分でも意地という感じ。デブの「ぐったりウォーキング」後編です。

 犀ヶ崖は、ふと気がつくと、昔住んでいたところから歩いて10分程度のところです。ここから再び南へ下って第9ポイントの普済寺にゆくのですが、登りで257線沿いを歩いたので、今度は旧軽便線跡(奥山線)を下ることになります。ここで私は二つのミスをしました。第1に昼食をとらなかったこと。犀ヶ崖に到着したのが午後1時前後で出発したのが約20分後なのですが、この時点ではまだ元気いっぱいでした。朝食をたっぷりゆっくり頂いたこともあって空腹感はなかったのですが、ここで休憩を入れておくべきでした。第2に水分補給です。500mlのペットボトルを2本準備していたのですが、ここでもう一本、追加しておくべきでした。土曜日から一日あたり3時間ぐらいしか寝ていない日が続いていたので、肉体的な疲労に加えて判断力が完全に鈍っておりました。

 旧軽便線跡を歩きながら、ふと気がつくと、子供の頃に散々歩いた覚えが。自転車だったのかもしれません。木陰のおかげで上り以上に快適に散歩道を進んでゆきます。10分未満で約1.2㎞を歩いたのはいいのですが、勢いづいてゆきすぎてしまいました。国道257号線にでなくてはならないのですが、もたもたしているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまいます。分岐点の目印のラーメン屋を見つけたのはいいのですが、日差しが強烈で、喉がからからになっていました。お茶を飲もうとすると、体温より水温が上昇していて気もち悪い。Husaiji2浜松の夏は、気温がそれほど高くなく(最高でも31℃程度でしょうか)、湿度も低いのでカラッとしています。ここにぬかりがありました。だから、大丈夫というのが甘かった。日陰がほとんどない道を歩くと、すぐに喉が乾いてしまいます。地図上では300m程度のところですが、道に迷っていると普済寺までが長く感じました。 良くも悪くも、曹洞宗のお寺にありがちな、お墓がメインの場所でとりあえず写真をとりましたが、縁なき衆生は度し難し。そそくさと第10ポイントの西来院へ。

 西来院の説明は、「家康の正室、築山御前の廟所のある禅刹です」とあってわかりやすいといえば、わかりやすいです。参道を歩いているうちに、足の裏、とくに踵の辺りがひどく痛んでいるのに気がつきました。デブのウォーキングには欠かせないウェーブ入りの靴を履いていたのですが、それでも足の裏が痛い。不躾ながら、本道に入る前に参道で靴を脱いで軽くマッサージ。Tukiyamagozen 白い本堂(?)もきれいなのですが、お墓の中にある築山御前の月窟廟がお目当てです。廟所を訪れたところで築山御前が殺された「真相」がわかるわけではないのですが。いろいろ考えるところはありますが、平凡な家庭に生まれたことを感謝しつつ、拝礼して参りました。

 宗源院が第11ポイントなのですが、ここに到着した時点で既に2時を回っていました。Sougenin6時からごく内輪の飲み会があるし、このまま完走するかどうか、迷ってばかりで中をゆっくり見ている余裕がありませんでした。はてさてどうしたものか。蜆塚幼稚園の前を横切りながら、第12ポイントである浜松市立博物館に行ってみてから考えることに。このコースでは2番目に長い約1.5㎞ですが、疲労もあって20分近くかかりました。途中に海の星高校という学校があるのですが、私が住んでいた頃は確か女子高だったはず。建物を改装中でびっくりするぐらい、きれいな校舎が建っていたので思わず目にとまりました。好みは人それぞれですが(完全に腰が引けています)、私はどうも女子校という存在が好きになれないです(男子校は…。ノーコメント)。進学校でも名門でもどうもねえ。まあ、男女共学・公立ばかりですごしてきたので、偏見が入っているのは否定しませんが。

 浜松市立博物館については8月18日の記事で書きましたので、繰り返しません。Tachiarainoikeお約束の場所なので、これ以上、書くべきことがありません。実際には、ここで1時間近く展示を見ておりましたが。 後は太刀洗の池に到着してゴール(午後3時40分頃)。 医療センターでバスに乗り、駅まで楽な帰りでした。気が抜けたのか、ここで悲劇が待っていました。

 JR浜松駅の駅ビル「メイワン」の地下一階に成城石井が入っていてぶらぶらしていたら、うなぎ弁当が目に入りました。浜松で鰻丼とか鰻重とかお約束のものは食べないつもりでした。しかるに、おいしそうなうなぎ弁当を見ていたら、空腹もあって思わず…。お値段は安い方で980円。あ~あ、苦労して歩いたのに、また太るよ、これ。味の良し悪しは空腹でしたので、確信はありませんが、おいしかったです。

 「家康の散歩道」は、私にうなぎ弁当への誘惑を勝てない現実を悟らせてくれたのでした。

…。

 あんた、家康の評価はどうなったのって?そんな面倒なことは歴史家にでも任せて(神君でも、狸親父でもどうでもいいっす)、同窓生と弱い巨人をけなし、ドラゴンズ優勝を期待する方が楽しいじゃありませんか。8月15日を直前に控えて教育熱心な学校の先生になった同窓生が、A級戦犯だの、「東條英機の言葉」だの持ち出しても、誰も聞いちゃいねえ。巨人相手にさえ、負けなかったらいいというコンセンサスの前に靖国参拝の是非など吹き飛んでしまいます。阪神のとろさも言いたい放題だわね。3連戦の初戦を3-2で落として後はぐだぐだだろうと同窓生の一人が言っておりましたが、ここまでとは…。それにしても、球場で試合を見ないときは、テレビで対巨人戦を写しながら、実況中継は東海ラジオの犬飼アナ+権藤博(解説)で聞くというのが、由緒正しき30代の東海地方におけるドラゴンズファンの楽しみ方です(たぶん、過去形ですけどね)。かんべえ師匠、是非、上海馬券王先生にお伝えください。あと、落合の監督就任時のコメント(2003年10月12日)をもちだして優勝時に突っ込んだこと(2004年10月3日)は、心から反省していることも(賠償はお許しを)。

(追記)下線部を追加し、「証拠」となる上海馬券王先生のコメントをリンクいたしました。上海馬券王先生の潔い懺悔と往生際の悪さをお楽しみいただければ幸いです。さすがかんべえ師匠の盟友としか申し上げようがございません(2006年8月20日)。

 こんなくだらない日記を読んでいただいた読者の方に久々にお約束を捧げます。

ここは「時の最果て」、すべては「寝言」。

おやすみなさい。

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2006年8月18日 (金)

気分しだいの歴史散歩

 今日は、一休みです。あの記事、手間がかかる割りにアクセス数が減る一方なので。というより、完全に自己満足ですね。俺はこれだけの距離を歩いたんだぞ。証拠の写真もある。どうだ。…気がついたら、読んでいる方は少ないわけで、慌てる必要もないだろうと。実は、今回の旅ではたと気がついた、正確にはあらためて気がつかされたことがあります。これは、第12ポイントの浜松市博物館の展示品(子供の頃に何度も見たはずなのですが)の一つである蜆塚遺跡から発掘された鏃を見てふと思ったことです。「ウォーキング日記」の中に入れてしまうと、ついつい悪い癖で長くなるので独立させますね。

 どうも、展示品の説明によると、縄文時代から日本列島の住人たちは殺し合いをしていたらしい。「らしい」というのは曖昧な表現ですが、確かな学者が検証した結果とはいえ、所詮は後知恵です。現場を見ていた訳でもない。現場の証言すら、いい加減なものが少なくない。疑いだすとキリがないのでやめますが、ヒトがヒトを殺すというのは、古今東西、神話の類には必ずといってよいほどでてきます。

 私みたいながさつで無学な人間からすると、中国史などというのは殺し合いをやって行過ぎると王朝が生まれ、ヒトが増えすぎると殺し合いをやる。ほどよく減ると、再び王朝が生まれ…というプロセスの連続のように見えます。誤解のないように申し上げますが、そろそろ殺しあいの時期に中国が入るとか、そういうことを言いたいのではありません。ときどき、やり過ぎるぐらい殺しあうことでヒトは種としての保存を結果的に図ってきたと思えるほど、この国の歴史、海外の歴史を見ると、戦争が絶えないです。それは、この国では縄文時代に遡る時期まで刻印されているようです。

 ヒトは種の間の自然選択から免れる立場に立ったから、種のなかでの「自然選択」を図ってきたという見方も成り立つのかもしれません。私は、この手の理屈が生理的に嫌いなので(いかにも後知恵という感じが強いことが理由ですが)あまり信用はしておりません。あるいは、「攻撃」を「本能」として理解する立場もあるようですが、これもあまり信用できません。理由は前に同じ。頭のよい人ほど、結果を原因から説明しようとしますが、あまり信用しておりません。頭の悪い私は、こんなもの、水が上から下へと流れるようなものだと考えております。

 時代を徳川家康、あるいは戦国後期から幕府成立の頃に話を戻すと、戦争が多い割に人口が極端に減少したという話を聞いたことはありません。これは単に私の知識が不足しているからかもしれませんが。江戸時代になると、治世が長くなるにつれて人口が増加しましたが、いわゆる「産業革命」後と比較すれば、はるかに緩やかでしょう。戦国の武将や徳川家康を始祖とする幕藩体制が意識的にそのような状態を作り出したとは思いません。むしろ、彼らを突き動かしていたのは自家の安寧と他家への征服欲という利己的な動機でしょう。大義名分は後からついてくるものです。

 この数年来、歴史認識とか歴史観とかおっしゃる方が増えました。ご立派なことだと思います。「鰯の頭も信心から」。別にバカにしているわけではないですよ。信じるということは、美しいことです。私みたいな「いかれた外道」は、なにか確実なものを求めてすべてを疑いだすと、自分が疑っているということ自体を疑ってしまいます。歴史観などというのは、気分しだいのものであるというちょっとしたことがわからないのは寂しさがありますが。

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